イタリアの中部、トスカーナ州が誇る世界遺産の中でも、特に多くの人が訪れるのが「ピサのドゥオーモ広場」です。中世の斜塔で有名な広場ですが、見どころは他にもありますので、少し詳しく紹介してみたいと思います。
ピサの町って、どこにあるの?
北イタリアの港町ジェノヴァから、リグリア海沿いに150kmほど南下したところにあるのが、ピサの町です。トスカーナ州の州都フィレンツェからであれば、西に約90kmといった感じですので、フィレンツェからの日帰り観光地としても人気です。
ピサの町が一番栄えていたのは12~13世紀の頃でした。実際、ヴェネツィア、ジェノヴァ、アマルフィと並ぶ、四大海洋共和国の一つとして西地中海を支配。コルシカ島やサルデーニャ島はもとより、マジョルカ島やイビサ島までも勢力下に置いていたものです。
ただし、海洋国家だったとはいえ、町自体があるのは、アルノ川の河口を10kmほど遡った地点です。
栄華の名残り「ドゥオーモ広場」
さて、世界遺産にもなっているドゥオーモ広場ですが、ここには聖堂のほか、洗礼堂と鐘楼が建てられています。通常、教会という建物の中には本堂だけではなく、鐘楼や洗礼堂も一緒にあるものですが、それがここピサでは、別々の建物となっているわけです。
建てられた時期は、もちろんピサの全盛期です。内外に自分たちの力を誇示する。そんな思惑も働いていたと思われます。
白亜に輝く見事な聖堂
広場の中心にあるのが、古代ローマのバジリカを思わせる、白大理石でできた聖堂(本堂)です。建築の開始は1063年。同年に行われたパレルモの海戦で、北アフリカのイスラム勢力を打ち破ったことへの感謝を込めて建てられました(献堂は1118年)。
ちなみに言えば、聖堂の建築資金には、イスラム勢力から略奪した商品や財宝の売却代金が充てられたそうです。
軽妙で優美なファサードの柱廊が目を惹きますが、内部も広々としており、奥行は95mで幅は32m。身廊と内陣の間を横切る袖廊の幅は、72mにも及びます。
見どころとしては、ジョヴァンニ・ピサーノ作の説教壇(1311年完成)と、当地出身のガリレオ・ガリレイが、これを見て「振り子の法則」を発見したと伝えられている、ブロンズ製のランプです(ただし完成は1587年。法則発見の6年後のことでした)。
ロマネスク式の巨大な洗礼堂
次に建てられたのが、イタリアでも珍しい円い洗礼堂です。直径はなんと35m。建設開始は1152年ですが、ドーム部分が完成したのは14世紀のことでした。全体としてロマネスク様式の建物ですが、そのこともあってドーム部分はゴシック式となっています。
こちらでは、ジョヴァンニの父、ニコラ・ピサーノが彫刻を施した説教壇(1260年)が注目に値します。父子の作品を比較してみるのも、面白いのではないでしょうか。
世界的に有名なピサの斜塔
最後に建てられたのは、いつか倒れはしないかと、いまだに世界の人々をヤキモキさせている、あの斜塔です。
高さは約56m。単なる塔ではなく、鐘楼という役目を担っています。
なお、詳しい解説は、こちらをご覧ください。
功労者を葬った納骨堂
時間があるのであれば、ピサの町に功労を尽くした人たちを葬った納骨堂(共同墓地)も見ておきたいものです。特に、左右の壁面に描かれた、「死の勝利」や「最後の審判」のフレスコ画が見事です。
余談ですが……
さて、古代ローマの時代から港として栄えてきたピサの町でしたが、栄華を誇ったのも13世紀の終わり頃まででした。
1284年、地中海貿易の覇権を競ってきたジェノバとの戦いで決定的な敗北を喫し(メローリアの海戦)、通商の利権はもとより、コルシカ、サルデーニャの両島まで奪われてしまいます。そして1405年には、フィレンツェによって町は包囲され、結局はその支配下に組み込まれるに至ります。
なお、港としてのピサの役割も、1571年以降は急速に衰えます。フィレンツェを支配するメディチ家のコジモ1世が、ピサの南西の町リヴォルノで、新しい港の建設を始めたからです。
アルノ川の河口付近には、多くの土砂が堆積してきたこともあって、実際上、ピサには大きな船が入港できないなど、港としての限界が来ていたのがその原因でした。
(以上)